秦 賢司(はたけんじ)牧師からのメッセージ
世界につながるあなたの教会夙川聖書教会にようこそ。
また、世界につながる夙川クリスチャンセンターにようこそ。
私たちの教会は多くの国の方々が頻繁に訪れる、良く知られた国際教会です。
そして、その教会で運営されている英会話クラスが夙川クリスチャンセンターの英会話です。
そして、夙川聖書教会の礼拝堂がリバーサイドチャペルです。
キリスト教そのものが非常に国際的なものですが、私たちはその国際性を実際に大いに楽しんでいます。
いつもいろいろな国の方々が来られて、心通う交わりができ、それぞれの国の生の情報もよくわかります。
あなたもこの交わりに大歓迎いたします。ぜひお越しください。
当教会の何よりの特徴は、牧師の礼拝時の講解説教です。説教は英語で同時通訳されています。
講解説教とは、聖書原典を、その原文の、ヘブル語とギリシャ語で再翻訳して分かりやすく話す説教のことを言います。
この説教は準備に大変な時間がかかる説教ですが、とっても納得の出来る深い話になります。
日曜礼拝に来られて、ぜひ一度お聞きになってみてください。あなたのキリスト教観が全く変わると思います。
あなたの人生の問題に、聖書ははっきりと答えを与えてくれるでしょう。
「お得なクリスチャン」と言う本を書きました。
この本の内容は、いつもの私の礼拝説教とはスタイルが違うのですが、聖書の学びからわかりやすく、
トピック別にまとめたものです。
目 次
はじめに 「お得なクリスチャン」というタイトルについてのご説明
はじめに 「お得なクリスチャン」というタイトルについてのご説明
私が牧師をしている教会には附属して、宣教師が教える英会話クラスがある。そのキャッチフレーズが「Enjoyエンジョイ Englishイングリッシュ! お得な英会話」である。Enjoy(楽しもう)というのは、アメリカ人の先生が名付けたもので、英会話を学ぶことに限らず、何でも楽しみながら行なったほうが頭によく残るといわれているからである。また、それは、健康にも良いという。
ま た、私達の英会話は少人数制でアットホームな雰囲気で行なうだけではなく、米国の教会の牧師さんが推薦する先生に来ていただくので、教師達がそれぞれ楽し いキャラクターで、小さいクラスを楽しく導いてくれる。しかも、教会の門をくぐっていただくために教会の施設を利用してこの教室を開催しているので、楽し くて有意義なうえに会費もエコノミーである。それで、「お得な英会話」とも名付けられているわけである。
夙 川クリスチャンセンターと言う名前を聞いて、その名前に抵抗がある方は最初から来られない。しかし、この名前だから来て下さる方もおられる。そして、来ら れた方々に向け、もっと聖書を知っていただくよい方法がないかと常々考えている。宣教師が英語でバイブルクラスをするのも好評である。しかし、私にできる ことを考えている中で、こういう本を書いてみようという思いが与えられてきた。
ま だ教会に足を運んだりしたことのない方々や、ちょっと聖書を読みかじってみたが、何を書いているのかわからないという方々にむけ、聖書の内容を少し知り、 キリストを信じる生活のエッセンスでもわかっていただければという思いで書かせていただいた。もちろん、すでにイエス・キリストを救い主と信じている方に はさらに信仰を深めていただく助けになればとも思っている。
こ の本を書いていて、私自身がずいぶん「お得な人生」を送らせていただいているという実感がふつふつと湧いてきて、喜びがみなぎってきた。こういう観点から 自分のキリスト信仰を見ることは少なかったので、あらためて自分自身に与えられている神の恵みを自覚することができたのは幸いだった。一般に思われている 以上にキリスト教には「ご利益」がいっぱいあるということだと思う。
し かし、この生き方は、ご利益を直接求めて生きているのとはまた違う。神を見上げて聖書を読み、キリストを信じて生きると、結果として実際ここに書かれてい るような祝福された人生経験がだれでも得られるのである。これは何か非常に神秘的なカルト宗教のような経験でもないし、例外的な経験でもない。だれでも聖 書を素直に読めば、そしてキリストを信頼して生きれば与えられる、二千年の間多くの人々が味わってきた証明済みの安心で幸福な経験である。そしてあなた も、味わいたいと心から願えば、これは必ず味わうことがおできになる身近な経験でもある。
日 本人はいまだにキリスト教を西洋の宗教のように思い、そして信仰の内容を理解せぬまま自分を仏教か神道の信者のように考え、聖書を無視して生活している。 さらに、墓や仏壇や葬式や親戚づきあい等の外面を気遣い、自分はとてもキリストを信じられないと錯覚している。ところが、最近は過半数の結婚式がキリスト 教形式で行なわれている。キリスト教は明るいし、あかぬけしているし、男女平等だし、幸福なイメージに充ち満ちている。あこがれている方も多いと思う。し かし、形だけ真似るだけでは、本物の幸せはやってこない。本当に幸福に満たされたいと心から願う方は、私がこの書物でお教えしている内容をまず十分理解し ていただきたい。私が繰り返し語っていることをはっきり把握されるなら、幸福に導かれる。
イ エス・キリストの教えは、どう考えても本当に「お得な人生」の過ごし方の教えなのだということを、ぜひあなたにも知っていただきたい。そして、あなたのこ の一度きりの人生を、ぜひ喜びと感謝に満たされて毎日を生き、悔いなく全うしていただきたいと私は心から祈り願っている。
神様からの大きな恵みと祝福を心より祈りつつ
夙川聖書教会 牧師
秦 賢司
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9・25)
この人は盲人であったが、イエスにいやされて目が見えるようになった。そしてイエスは、私達がみなこの盲人と同じ経験をする必要があるという。私達は皆、盲目だというのだ。いったいどういう意味でイエスはこのようなことを言われているのだろうか。
ま ず私達は不思議なことに、なぜ自分が今ここに、この地上に存在しているのかを知らない。何のために存在しているのかもよくわからない。私達はたった一人の 人の心の内すらも、十分に読むことができない。明日起ることさえわからない。そして自分が今していることがどんな意味のあることかもよくわからない。真剣 に生きようと思えば思うほど、私達は実は自分には何も確かなものが見えていないことに気がつく。
自 分は生きている。そして、触れるものは確かに存在する。しかし、それ以上のことは私達はほとんど何もわかっていないのだ。時間とは何? 宇宙の果ては? 目の前にある空間の最も微細なところには何があるのか。私達にはこんな単純なことが今、全く見えも分かりもしていない。私達の「目」はよく見えるようで も、電磁波のうちの可視光線しか見えない。赤外線より波長の大きい波も、紫外線より波長の小さい電磁波も全く見えない。それに人の心も見ることができな い。他の人の生活も見えない。私達はごく限られたものを見て、そして分かったような顔をして生きている。「見えていない」と言われれば「そうかも知れな い」と言うしかない。しかし、いったい「見えるようになる」とはどういうことなのか。
こ の盲人は、イエスに語りかけられ、イエスに触れられ、イエスに聞き従い、そのようにして体験的にイエスを知った。すると、彼の目が奇跡的に開かれた。これ はイエスがなされた特殊ないやしの奇跡である。そしてイエスの具体的な奇跡はいつも、イエスがそれと並行して同時になしておられる霊的な奇跡の、目に見え る現われでもある。つまり、この盲人は眼がいやされたとともに、それ以上に、心の目、霊の目が開かれたのである。そして、これで「本当に見えるようになっ た。」と言っているのである。
それ では、心の目が開かれて見えるようになるとはどういうことなのか。この盲人は、目をイエスにいやしていただいて、今度は自分の目で直接イエスを見ることが できるようになった。その体験を通し、彼はイエスが神の子、救い主であることを知った。心の目が開かれるということはそれがわかることである。つまり彼 は、全能の創造者である神の子イエスを、自分の目で今はっきりと見ることができている。今までは見えなかった神の子イエス・キリストがはっきりと見えてく る。それが心の目が開かれたということなのである。
心 の目が開かれることは、一つ一つの未知のことが全部いっぺんに明らかになり分かるようになるということとは違う。心の目が開かれるということは、万物を無 から創造した神を真正面からよく見ることができるようになるということである。イエスを通して創造主なる神がよくわかり、その神と心が通じ合えるようにな ると、神が私達の無知な部分や未知の部分の一つ一つを説明してくださっていることがわかる。イエスは語っておられ、また神の言葉は聖書として今私達に語り かけている。イエスに聞き、聖書に聞き、そして、キリストの霊、聖霊に聞いてゆくならば、人生の疑問は一つ一つと解消されてゆく。
イエス・キリストが救い主であることを知った人は霊の目が開かれた人である。その人には今まで見えなかった神の創造と導きの世界がよく見えてくる。そして、その人は、この盲人とともに「今は見える」と心から言うことができるようになってゆくのである。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14・26)
私 達は時々、突然何かを思い出す。ほとんど忘れていたのに、急に思いついたり、忘れていた過去を思い出したり、友人を思い浮かべたり、仕事を思い出したり、 アイデアが浮かんだりする。英語のインスピレーションという言葉はイン(「中に」)とスピリット(「霊」)が合わさった言葉なので、ここにも何か霊的なも のの働きを感じる言葉使いがある。
「思 い出す」とか「思い起こされる」という行為を考える時に、それが「霊的な」ことと通いあっているのだと考えてみると、この「霊的な」という言葉の意味がよ く分かるのではないだろうか。クリスチャンは「祈る」という最も霊的な行為の最中に、実に色々なことを「思い出し」、「思い起こす」ものである。
神はイエス・キリストを通して、神を信じ始めた者に「聖霊」を与えて下さる。その聖霊は私達に「すべてのことを教え、またわたし(イエス)が話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」(ヨハネ14・26)とある。
文 頭のみことばは、イエスを信じる者の心には聖霊が働いて二つのことをして下さると言っている。一つは、「すべてのことを教える」つまりあらゆる疑問に対し て神よりの教えを与えて下さること。もう一つは、「イエスが話したすべてのことを思い起こさせて下さる」ということである。この後者が、思い起こさせて下 さる聖霊の働きについて明瞭に教えている。
私 達は色々なことを思い起こす。そして思い起こすことの中でもとりわけ、イエスが話したことを思い起こすことは重要である。様々なことを思い起こしてそれが 皆「神のみこころ」というわけではない。しかしイエスの教えを思い起こすなら、それは重要な思い起こし、神の特別な導きのみわざと言ってよいだろう。神を 信じ祈っている者にとって、タイムリーに何か「イエスの教えを正しく思い起こす」ことは、そのまま「神の導き」と名付けてもよいものである。「そうそう主 イエスはこう教えておられる。」と思うことの連続そのものが信仰生活である。こういう「人生の規範」というか「心の中の正しい判断基準」を持って生きるこ とが、私達をつくられた創造主なる神のみこころにかなった生き方なのである。
し かし、こういう判断基準を持って生きることを知らず、しかもそれで普通の生き方のように思っている生活では、段々と普通ならざる苦しみに見舞われてゆくこ とだろう。それはつまり、本来人間に自然に当然あって神より流れてくる生きる知恵と力の流れをふさいでいるようなものである。そんなことをしていると生き る力も活力も次第に混乱し、萎えてしまう。ストレスで動きが止まってしまう。心の酸欠で倒れてしまう。心のエネルギー不足が起こって、心の滅びを迎えるこ とになってしまうのである。
イエス の言葉を上手に思い出そうと思えば、それなりの準備はいる。覚えていないものを思い出すことはできない。聞いてもいないのに思い出せるはずがない。学んで いないなら正確に思い出すことは無理である。それで、イエス・キリストを知り始めた人は教会へ行く。そこでイエスの言葉をしっかりと聞き学ぶという体験を するのである。教会で牧師の説教を聞くだけでも、それを聞いているときに実に色々なことを思い出し、思い起こす。そしてそれが、キリストの前に立ってキリ ストの言葉を聞いているときそのままの気分なのである。その思い出し方を心得ると、今度は自分で聖書を読み、学び、次第にそれを心の中にたくわえて、そし て、神のことばを自在に思い出せるようになる。
これが古来からの「聖書の神を信じる人」と呼ばれる人々の歩みであり、現在も可能で、だれでもできる「神とともに歩む生活」のやり方である。それはそんなに難しいものではない。
「そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)
「真理とは何か」というのは哲学者が問題にするものである。その高邁とも思える「真理」について、聖書はいとも簡単に書いているので、これには驚かざるを得ない。
「真 理」などというと人生の答えや何か抽象的な悟りのように思ってしまうので、もったいなくて深淵で、そこに到達するには凡人には一生かかっても至らないよう に思ってしまう。しかし、聖書は実にはっきりと単純に、真理とは何かを教えている。聖書で「真理」というと、もうこれはイエス・キリストというお方を指す 言葉である。
イエス・キリストの言葉や教えをよく聞いて、その教えるところをよく守って救われ、その救いの中を導かれつつ歩み続ける。そうすると、私達はイエス・キリストをさらに続けてもっとよく知ってゆくことになる。それが聖書の教えている、「真理を知る」ということである。
こ こでは「真理」という言葉よりも「知る」という言葉の方がもっと重要に思える。聖書の「知る」という言葉はほとんど「体験する」という意味の言葉で、イエ スを体験し始めるともうそこには真理を体験したとしか言えないような充実感や喜びがある。そしてそこで与えられる実感を文頭のみことばは「真理を知り、自 由になる」と言っている。反対に言うと、真理を知る前は、私達は様々な不当な束縛の中にあり、自由ではなかったと言っているのである。どういう束縛かとい うと、悪しき汚れたものに私達を束縛する文化といったものや、様々な迷信。歴史的と言いつつ踏襲されてゆく悪質な伝統。さらに、自分の内に内在する、罪や 汚れに引っ張られてゆくよこしまな思いなどもそうである。
私 達は自分で自分を束縛するようなこともしているし、他者や文化からも様々な悪しき束縛を意識するにせよ意識しないにせよ受けている。その中には、よく分か らなくても、言い知れぬ恐れを起こさせたり、ぞっとさせるようなものがあるのもわかるのではなかろうか。しかし、イエス・キリストという神の真理を知る と、私達は悪しき束縛から実にすっきりと解放され、解放感と喜びとで満たされる。バチやタタリといった、私達の文化の底にあって、無意識のうちにも私達を 心の深みで支配しているものからも、全く自由にされるのである。そして、人生に新しい明るい道が開かれる。これは驚くべきことである。
わ たしはまじない師をしていた人物で、クリスチャンになった人を知っているが、彼は「イエス・キリストの霊的パワーがもう他の何よりも一番ずばぬけて強いの ですよ。私は以前のまじないでは苦々しいものしか得られなかった。しかし、キリストによって喜びや平安を得ることができた。」と言っている。そういう世界 に住む人もイエス・キリストの力はよく理解できるのだ。いや、彼らだからこそ、そういう世界のことがよくわかるとも言えよう。神の真理はまた、この世でも 真理でもある。それだけに、まことの神を信じる者がこの世を生きてゆく際、その生活の中で意外に強烈なパワーを持つことができるのである。
こ の真理を知る喜びをあなたも一度体験してみるべきではないだろうか。自分の力で必死になって一生かけて真理を探す方法もあるだろう。しかし、世界標準と いってもよい真理があっさりと私達の前に置かれている。そして、その真理はだれでも味わおうと思えば容易に味わえるような形で、あなたの前に提供されてい るのである。聖書やイエス・キリストを様々な理由で否定してみたいと思う心をお持ちかもしれない。しかし、一度ここにある素晴らしい自由をためしに味わっ てみてから、もう一度あなたの生き方の基本方針をじっくり考え直すのはどうだろうか。
「わたしが神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第一ヨハネ5・13)
私 達は普通、「死んだら天国へ行く」と言う。またしかし、もう一方で、「死んだら地獄に行く」とも言う。そういうものを一切信じないという人もいる。死後の 世界があるかもしれないが、行ってみなければだれも何もはっきりしたことは言えないとも思う。確かに、天国や地獄が死後のものであると定義をするならば、 それはそれで正しい推論だろう。
私 が学生時代にキリスト信仰に導かれたとき、とても奇妙に思えることがあった。それはクリスチャンになって最初に学ぶ教材の一番はじめに「救いの確信」とい う項目があって、そして上記の第一ヨハネ5・13のみことばが書かれて、短い説明があったのである。救いの確信をこの聖書の言葉から持つように勧めている のである。そんなものかと思ったが、その時は分かったようで、分かりづらかった。何かドライな感じがし、戦後の日本のキリスト教はアメリカ直輸入という色 彩があるから、あるいはそういう背景からのものであるかもしれないと思った。しかし、最近になってこのことの意味をもう一度深く考え直すようになった。
日 本人は仏教と神道をごちゃ混ぜにした中で育っている。死んだら「神」になるのやら「仏」になるのやら、天国に行くのやら極楽に行くのやら、それとも地獄に 落とされるのやら。全く分からない。お盆の際に「地獄の釜のフタが三日間開いて」と聞かされていたので、何か煉獄の様なところに行く感覚もあった。しか し、「おばあちゃんはあの世に行ってしまった」と言ったり、「星になっちゃった」と言ってみたり、「天国のおじいちゃん」と話してみたりで、死後の世界は 一般的には全くつかみどころのない世界となってしまっている。しかし、キリスト信仰にもう三十年も生きている私にとって、ますますはっきりしてゆくのが 「天国」の感覚である。「天国に今はっきりと入っているという感じ」と言ってもいいかもしれない。「三十年前に教会の初心者コースで学んだことはこういう 世界に既にいた人々が作ったものなのだなあ。」という感慨を現在持つので、これはぜひキリストを信じて信仰生活を始めようとする初心者の方には知っておい ていただきたいテーマである。
たと えば、イギリスという国は王国なので、その英語名をユナイテッド・キングダムと言う。この「キングダム」という言葉は、キング(王)が支配する国という意 味である。聖書の言葉では、王はバシレウス、王国をバシレイアという。天国という言葉は「天(すなわち神のいるところ)の王である神が支配する国」。神の 国も「神が王として支配する国」という意味である。
私 達は「国」というとどうしても地理的なもの一辺倒に考えてしまう。しかし、土地に線を引いたら国ができるわけではない。そこに支配権が及んで、はじめて国 がある。その国の主権者が「王」と呼ばれるときに、その国は「王国」なのである。したがって、聖書で「天国」とか「神の国」といった時にそれの意味するも のは、「聖書の教える天地創造の神を王として仰ぎ、その支配に従って生きていること」を指す。この世に生きていることをただ単に指すわけではない。「まこ との神に従って生きている」ならばその支配下にあり、神に従って生きていないなら、その王国に入っていないで外にいる。あるいは敵対しているのである。
私 達は天国や地獄を死後のものとばかり思って暮らしているという面がある。温泉などにつかったときに、「極(ごく)楽(らく)な世界」を感じて「極楽。極 楽。」などと言ったりするが、それはご愛嬌である。「生きながらにして、地獄のような経験」と言うが、あちこちの大寺院で見る地獄絵図は実にむごたらしい もので、本当に仏教があのような悲惨な来世を教えているのなら、人々がこの世でこんなに浮かれたような生き方をすることはきっとまちがっているに違いな い。この世の楽しい誘惑と古ぼけた寺院の地獄絵図とでは人々の心の引かれ方が違うのでこうなのだろうか。現代人は「今」に生きており、「死後の世界」など どこ吹く風で生活してしまっているように思える。
聖 書はその「今」の生活の中に天国がやって来るということを教えている。さらに言うと、聖書は私達が「今」、「天国」か「地獄」かのいずれかの一部にいるの であって、それがどういうことなのかを教えている。ここでは天国の話を主にするが、それと対立したものが、聖書の言う地獄であることを知っていただきた い。そして、あなたが「今」どちらにいるのかは聖書を読むとよく分かる。そして、あなたは、今いるそのままの状態で、この地上を去った死後に、非常にはっ きりと「場所」の伴った天国、あるいは地獄に行くのである。
創 造主なる神を私達は忘れて生活している。これを聖書は「的外れの生活(sin・罪)」と呼ぶ。この生活から一転して「目的にかなった生活」へ、すなわち、 神に造られた者が神を人生の主として歩む生活に移ることが、「悔い改め」である。イエス・キリストに委ね、イエス・キリストに聞き従って歩む生活というの がこの悔い改めた生活の内容である。すると神の守りや助けを身近に体験する。それで実感を伴って、「ああ、天国にいるんだなあ」という思いが切につのって くるのである。心の内側の生活と外側の環境の動きとが、何と表現したらよいのか、実にピッタリと心の中でタイミングが合ってくることを経験するのである。 奇跡的なことまで自然なことのように思えてくる。困難がないわけではないが、そのすべてが働いて益となる世界、無駄のない世界を経験する。これが天国とい えばそうだろうなあと思える世界。これが、キリストを信じて年月が経てば経つほど満ちてくる生活における実感である。
「神 に支配される」などというと、窮屈な感じを持つ方がおられるかもしれない。しかし私達が空気の中に住んでいると空気を意識しないでいるようなもので、そこ からはずれると息苦しくなってしまうくらい、そこは快適で自然なのである。線路の上を電車が走るようなもので、こういう易しい生活方法があるのに、なぜ多 くの人々は、苦労して痛い思いを繰り返し、この古くて確実で豊かな道を選ぼうとしないのかと不思議に思う。もっと分かりやすくこの道を多くの方々にお伝え したいとますます思う。
神のご支配 や神の導きに従うことは、かえって他の様々な重荷から解放されるシンプルな生き方である。そして、これは私達一人一人の心の本性にも、実にピッタリとした 生き方でもあるとも思う。さらに、この生き方は、たとい、いつこの地上を去ることがあっても心配のない生き方である。それは、もうはっきりと、天国の実感 を伴うこの地上での生活から、もっとはっきりとした天国に行く道であることを自他共に認めることができる素晴らしい道なのである。
「わたしがおまえを哀れんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18・33)
カ ウンセリングを学ぶ人はだれでも、相手を「受容」することを学ばされる。私達にはそれぞれ、自分なりの何がしかの価値観があり、相手の人が、私の持つ価値 観とずいぶん外れたことを言い始めると、私達はついそれを否定しようとしたり、拒否反応を示したりしてしまう。相談を持ちかける方は、相手を一応信じて話 しているので、聞いているカウンセラーが受容しないで否定的な反応をすると、もうその信頼感がなくなり、それ以上打ち明けて話したいと思わなくなる。それ で、カウンセリングでは、話を聞く役割のカウンセラーはそんなことはしない。でないと、そこに生じているのは「カウンセリング」でなく「指示」である。他 人に指示されて、人が本心から動くためには、そこに「深い信頼」という土台が必要なのである。信頼感が育成されていないのに「指示」しても、それはそんな に効き目がない。むしろ反発があるかもしれない。
カ ウンセラーは職業的に相手をありのまま受容する訓練をしているが、一般的に言って、人をありのまま受け入れるということはなかなか難しいことである。自分 と関係のない人なら受容できても、自分に影響が及んでくる身近な人々をありのまま受け入れるのは至難の業である。離婚に終る結婚生活の失敗の理由に「性格 の不一致」というのがある。これはまさに「相手をありのまま受け入れられませんでした」という言葉の言い換えである。身近な人を受容するということは、ど れほど熱烈な恋愛をし、どれほどお金をかけて結婚式をキリスト教風にしてみたところで、甚だ難しい人生の難事である。あれほどベタつくアメリカ人の夫婦は 今、1/2以上の確率で離婚する。日本では離婚状態を表ざたにしたくないので離婚率の統計は結婚の数の約1/3であるが、残りのあとの半数も「別れたいの に正式には別れられないジレンマの状態にある」と聞いたことがある。
五 〇年も六〇年もの間、性格の一致しない連れ合いとけんかしながら死ぬまで過ごすというのは、そのまま地獄のような生活ではないか。社会が豊かになると、人 々は旅行に、演劇に、カラオケにと、気の合うもの同士で出かける。様々な気晴らしをしなければ過ごせないほど、私達は人間関係に疲れ切っているのである。 気晴らしに行った習い事で、また複雑な人間関係の中に入ってしまって、悩んでいる人の話を聞かされたことがある。人間関係で悩む悩みの種はこの地上では尽 きることがない。
キリスト信仰を持 つと、私達の生活は「神にゆるしていただいた」というところから始めることになる。「イエス・キリストが、私の過去の様々な罪の罰の身代わりに十字架につ いて死んでくださった。それで、私はすべての良心の呵責、罪責感、重荷、思い煩いを全くイエス様にお委ねし、罪赦されて、スッキリされて生き始めます。」 こう言うのが真正なキリスト信仰である。そして、さらにその上に、思いのほか大きなおまけの語りかけがある。「私があなたをこんなに犠牲を払ってゆるして あげたように、あなたも他の人を私に免じてゆるすのだよ。」とキリストが言われるのである。それで、クリスチャンにとって、他の人を赦すという問題はどう したらよいのか迷う様なことではない。もう、キリストのゆえに、相手を赦し、受け入れ、平和を保ち、愛し、助けるしか道はないのである。救い主キリストか ら「赦す強制」つまり「人を赦せ」と言う命令が与えられているということが、私の人生において実にかけがえのない大切なものなのだということを強く思わさ れる。
私達は、赦して受け入れなけ ればならない人が自分の前に現れる時、神の訓練を受けることになる。そして、最初は赦すことなどとうていできなくても、次第に、できるだけ早く赦したほう がじっくり赦すよりも赦しやすいと体験的に分かってくる。また、あっさり赦すほうが、ねっちり赦すより自分の心の負担が軽いことも分かる。その結果、早く すっきりと人を赦そうという、実にすがすがしい人生を送れるようになるものである。
日 本語には因縁とか因果という言葉もあるが、怨みをながながと持ち続けても自分の体を悪くするばかりである。また、怨むのにも精神のタフさや集中が必要で、 何かどこかにしこりや肩こりのようなものを残さずにそういうふうにし続けられるようには思えない。こういうことが原因で自分が病気になったり命を縮めると いう人は、結構いるのではないかと思う。「赦せない」と思うことのは、本当に始末の悪い私達の心の動きである。
自 分は少なくとも赦せるものになろうと決断することが、神に従うことである。ただ、それは正しい道だとは思うが、そんなに簡単にできることでもないだろう。 ひどい仕打ちや長く続く悪しき結果などに直面すると、人を赦すことは割に合わないように思えることがあるかもしれない。しかし、聖書は「赦せ、赦せ」と教 え続けている。そして、神は奇跡のように私達に「赦す力」をお与え下さる。それで、神の恵みによって人を赦すことができるのなら、同時に、赦す自分自身の 心も救われる。
私達がある人を赦し たからといって、赦された方の人が神の前に正しいということではない。聖書には「復讐は神がすることである。」(ローマ12・19)とあり、本当の裁きは 神が担当して下さる。また、そのために国や警察や裁判所はある。あなたに何か悪しきことをする人は、他のところでも同じようにそうしている。その人のライ フスタイルがその人自身に災いをもたらすとも言える。そして、神は罪を犯すものを裁きたもう。その人が悔い改めないならば、神は必ず裁く。この世で裁かれ ていないように思えても、死後には必ず裁く。神に目こぼしはない。だから、私達はむやみに自分で仕返しを考えないことである。それを踏み込んで行なうこと によって、今度は私達の方が神の裁きを受けることにもなるかも知れない。人から迷惑を受け、そのあおりで、自分まで神から裁きを受けねばならぬような道を たどるとしたら、これは人生の大きな損失ではないか。むしろ、人に迷惑をかけられても、そこから自分自身が神への信頼と神への従順を学び、人を受け入れ て、人を愛する訓練を積んだほうが何倍もよいではないか。それをすることができないのは、私達の内に根強く住みつく自己中心、つまり「罪つみ」のせいであ る。神にこれを取り去っていただき、赦す力を与えていただき、そして私の魂をさらにきよめていただかねばならない。
か くて話はイエス・キリストの十字架の救いの話しに戻ってくる。「主よ、この赦すことのできない罪人つみびとの私を憐れんで下さい。」こう祈るといいのだ。 赦すことは「私達自身の力で」できることではない。ここには「神わざ」が必要なのだ。その神わざにあずかるにはどうしたらよいのか。もはや、その相手の人 を見ないことである。キリストばかりを見る。キリストの言葉ばかり読む。神にばかり心を向けて祈る。これがキリスト信仰である。
私 達の心がキリストの赦し、恵み、愛で豊かにされるなら、不思議なように私の心から怨みや復讐心も取り去られてゆく。これからは怨みや裁きの心を私達の心に 根を生やさせないようにしよう。そういう思いが起きたならば、すぐさまキリストを呼ぶのだ。このようにして、私たちは知らぬ間に一歩一歩と、神が尊いこと にお用いになる器へと育てられてゆくのである。
「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」(黙示録22・14)
文 明が進み、地上の生活がかつて程の苦痛に満ちていない現在。私達は生活のために働く一方で様々な享楽にも囲まれて生きている。家の中には、いくつものリモ コンが散乱し、テレビが、CDが、エアコンが、マッサージ機が、私達の指示を待っている。携帯電話のボタンを押せば友人と話ができ、パソコンのスイッチを 押せばメールもインターネットも可能だ。私達は毎日の日常生活に忙しく、「自分が死ぬ」ということなど考えることもできない。死とは何か別世界のことのよ うであり、夢、幻のようである。テレビゲームをすれば主人公は何度でも生き返り、パソコンが止まったのならリセットをかけられる。しかし私達のいのちはそ ういうわけにないかない。一度限りの、一つだけのいのち、人生である。死が恐くなくなったのだろうか。そうではない。みな必死に、巧妙に、死を忘れよう、 気づかないでおられるならそうしておこうと思っているのである。
こ んにち、自分の家の畳の上で死ぬ人は少なくなった。老人も病人も、みな病院の集中治療室で死を迎える。機械と薬と技術の助けを借り、一分でも一時間でも長 く生きられるようにと、懸命の処置を受け、計器に囲まれて死を迎える。死は依然としてそこにあるのだ。死は私達の前に大きな口を開けて待っている。今か ら、100年後、現在地上で生きている数十億の人々は、ほんの少しの長寿の例外を除いては、もう誰もいない。冷静に考えるなら、一人残らず皆、死に向かっ ているのである。
死後、どこに行くのか、はっきりと言える日本人がどれだけいるだろうか。皆が死ぬから、私も死ぬ。そういう風に悟っているのだろうか。「死後の裁き」などと言っても誰も聞く耳を持っていないのだろうか。
聖 書は人間が誰しも死を恐れていると記す。それは一人一人が神のみこころにそむく罪を犯し、各自の心がそれが痛いほど分かる罪責感を持っており、死んで神の み前に出ることはすなわちその罪の裁きの場に出ることなので、死が恐いのだという。現在多くの人々は災害の到来を恐れている。地震や土砂崩れなどで、痛み を伴う死が突然訪れることを恐がっている。しかし、死そのものや、死の後に来るものを恐れる人は減っているのかもしれない。最近は仏教もあまりこのような ことを教えない。また、唯物論的な教育を受けると「死後」の世界というものがその存在そのものから否定されるようになった。火葬されると骨だけが残るが、 それがどれ程の存在であるのかとも思う。霊の存在に社会が懐疑的なのもこの状況を加速している。コンピューターゲームや映画の中に、悪霊のようなものはた くさん出てくるが、あくまでの仮想のゲームの世界と思うので、その極端なおどろおどろしさがかえって現実感覚から離してしまうのだろう。ゲームや仮想の世 界では想定しても、現実の世界での霊の理解や、死と死後の世界の存在感は、ますます希薄になっている。「死後の世界なんて、現世の生活と関係がない」こう 思う人が多いのだろう。しかし、これこそ現代人の最大の誤解と私には思われる。
私 達は放っておいても、一つ一つの物事の意味や目的を、自然に考えはじめる生き物である。すべてのものの原因と結果を考えるのが人間である。そして、私達が 最も大切とする自分自身のいのちの意味や目的についても、当然自然に考えるに至るものである。もし、私達の心の叫びや良心の叫びを強引に否定するのなら、 「私のいのちというものは、この地上で生まれてから死ぬまでで終りである。その後は何もない。だから、この地上ですべてのつじつまを自分なりに合わせて生 きよう。」と考えることもできよう。こういう立場に立つある著名な心理学者は、この世に生きる人間の基本的な必要を、物質的必要から精神的必要までランク 付けをして、その最も高次なものとして「自己実現」というものをあげた。自分の願望をやり遂げるところに人生の最高の気分が存在するとこの学者は言うので ある。たとい、そこに深い良心の呵責や罪の痛みが心の底に残っていても、この達成感こそ最大の喜びと言うのである。
聖 書は、私達一人一人のいのちが神によって与えられたものであり、私達一人一人が、神のみこころの中に生きたかどうかを、この肉体の死の後に問われると教え ている。私達の存在の本質はからだをもった霊(心)であって、アダムの堕落以来、この地上のからだは朽ち果てるものとなってしまった。しかし、神の特別の 恵みにより、霊(心)がキリストによって救われる道が残され、救われた霊(心)は地上の肉体的な死後、天国においてよみがえらされ、「永遠のからだ」が与 えられると説く。ちなみに、救われない霊も、滅亡してしまうのではなく、ともによみがえらされて、「永遠の滅び」あるいは「永遠に火が消えず、うじが尽き ることがない」という永遠の裁きの中に入れられることが聖書に記されている。これが地獄である。人が肉体的に死んだらそれであなたのすべてがなくなってし まうなどという、そんな単純なものではないと聖書は教える。いや、すべての宗教が、多かれ少なかれ、死後の世界の実在性を証言しているのだ。
この事実は、私達の地上の今の人生の生き方に挑戦を迫っている。そのつどそのつど何とかつじつまを合わせて生きようとしている私達。しかし神は、私達がいつ死んでも良いように、自分の生き方が永遠の前で通用するかを常にまじめに考えよと迫っているのである。
死 後の世界を全く否定している人であっても、「ひょっとしたら死後の世界があったらどうしよう」という一抹の不安をぬぐいきれないのではないだろうか。ある 時はそれが羽目を外した生き方の歯止めになっている。しかし、それだけではまだ十分ではない。死後、神の前に出ることがはっきり分かるとともに、なおか つ、そのことのため十分に準備しながら生きようとするのが正しいのだ。そして、その生き方の極意は「私の身代わりにイエス・キリストが死んでよみがえって 下さり、そのイエスが私の内に入って住んで導いて下さる。」ことを信じるところにある。キリストが私のすべての罪・罰・裁きを身代わりに引き受けて下さる ので、キリストを信じるものが裁かれない。そうすると必ず天国に行ける。そのキリストが地上で導き続けて下さる。
つ まり私達は、神の裁きを前提に生きる方が、罪の事実にも正面から直面できるし、赦しもはっきりするのだ。そうすれば生き方もはっきりしてくる。生きる喜び も大きくなってくる。罪によるうしろめたさも全く解消され、生き生きと生きる力もわいてくる。そして多くの人が不本意ながらもこだわりを持っている死をは じめ、たたりや、因習などの悪霊の呪いの数々のようなものからも全く自由になってゆける。
人生最大の敵・危機は「死」である。しかし、イエス・キリストは死後、三日目に「死よりよみがえり」、死を葬ってしまった。キリストを信じるものは、永遠のいのちを持ち、裁きに会うことがなく、死からいのちに、今もう既に移ってしまっているのである。(ヨハネ5・24)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4・18、19)
愛 という言葉が氾濫しているわりには、「愛」に失望したり失敗している人が多いのではなかろうか。愛して育てたはずの子供が非行に走り、愛して結婚したはず の二人の関係が破局に終り、互いの間に愛があったはずだったのに、傷ついて終った人間関係などというものは、身の回りにその実例が山のようにあるのではな いだろうか。
「愛」という日本語が 表わす意味の守備範囲の広いのも、問題を大きくしている。教会で説かれる神の愛も愛なら、スナックで酔っぱらって歌うカラオケの曲の中にも、愛は頻出す る。ラブというハンバーガー店もあれば、同性愛などというものまである。英語の古い聖書ではこの原語をラブと訳さず、チャリティーと訳している。フィラデ ルフィアとは「兄弟愛」という意味である。ロンドンのピカデリー広場にある愛のキューピットは「エロスの像」と呼ばれている。それは天使が弓を射ようとし ている銅像である。「愛しているから君が欲しい」と叫ぶ若者の歌がある。結婚しているものから見ればそれは性欲の高まりだけのように見え、そのまま結婚す るのは危ないからよしたほうがいいよ、とアドバイスしたくなる。しかし、愛の名のもとに二人はお互いを説得し結ばれる。そして多くの場合、なぜか分からな いまま、しばらく後に、引き潮のような愛の減退に襲われる。そして「もう愛せなくなっちゃた。」と言う。本物の愛とは果たしてそんな程度のものなのだろう か。
聖書の言葉の中で、日本語で愛 と訳せる言葉はいくつもあるのだが、「神の愛」に限って用いられている言葉は、ただ一つしかない。それは厳密に意味が定まっている言葉で、「アガぺー」と いう。私はこの「神の愛=アガペー」というものを理解して、私達の日常生活で使っている「愛」という言葉の貧しさを知った。私達は心を込めて正直に「愛」 しているはずなのであるが、この私達の「愛」にはいつも行き詰まりがやってくる。「愛」の必要はわかるのであるが、「愛」だけではどうしてもやっていけな い甚しい限界を感じる。「愛」は必要だが、それを打ち消してしまうようなものが、自分の内に内在していることを感じるのである。
「愛 する人のために死ねますか」という言葉が、何かの宣伝文句にあった。あなたならどうだろう。それは自殺行為のように思える。本質的に私達は自分を人のため に捨てることが著しく困難なのである。聖書はなお言う「たとい自分のからだを焼かれるためにわたしても、愛(アガペー)がなければ、何の役にも立ちませ ん。」(第一コリント13・3)やけくそと投げやりな心で命を投げ出したところで、それは「愛」によるのではないと言われているのである。またこれとは反 対に「愛さえあれば」と思って、つい自分の考えを人に押しつけることもある。親は子のことを愛するゆえに色々な押しつけもする。独りよがりの善人は他人の 事情も知らずに、自分の都合で押しつけて良しとする。「愛という漢字は、そうなノー、そうなノーと心から受け入れる、と言う意味です。」と言う話を聞いた ことがある。たしかに、「心」と「ノ」と「受」けるという字が組み合わさってできている。少なくとも愛は押しつけがましさとは反対の、相手の立場に立って 考えるものだと理解するのが正しいと思う。
聖 書の愛は、愛に困難を覚えている私達一人一人を神が愛し、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わして、私達の問題と罪と重荷のすべてを彼に担わせ、 私達の身代わりに十字架につけて裁いたことにある。ここに、神の私達への一方的な深い愛があらわされたのである。この愛は、私達の完全に破綻している部分 への、神の深い思いやりに由来している。しかも、それは、私達が何か努力をすることなのではなく、神が一方的に与えて下さる赦しと恵みを受け入れよという 招きである。そして、この愛に接した人は「愛」というものがどういうものかわかる。そして、自分自身の力ではそれまでできなかったことが、ただ神の導きの ゆえにできるようになってゆく。与えたり、ゆるしたり、受け入れたり、忍んだりすることができるように、一歩一歩変えられてゆく。「神のアガペー」こそ、 私達の愛の源泉であり、方向性であり、模範であり、力である。これを「神の愛に生きる」という。
三 浦綾子さんの言葉に「神様は私達に『愛せる』とは言っておられない。けれど『愛しなさい』とは言っておられる。」というのがあった。そう、私達が「愛せ る」などと思うのは、私達の愛の浅さをもう一度はっきりと自覚しそれを神の愛に比べてみるなら、まことにおこがましいことがわかる。しかし、神の本物の愛 を知った人は「神の恵みと導きによって、愛してみよう」とは思うことができる。そしてその結果は、「やったあ。愛せた」というようなものではない。「私た ちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」(ルカ17・10)という言葉で終わるようなものなのだ。しかしもし、私達がこのように生き 始めることができるなら、愛を大いに必要としているこの世にあって、私達は聖書の命令である「愛しなさい」をいくらか生きたことにはなるだろう。
歴 史上の愛の人といわれる人々も、結局このような愛に生きたのである。ナイチンゲールやマザーテレサもこういう愛に生きたのである。それは彼らの伝記を読む ならばよく理解しうる。そしてあなたも、この神の愛に生きるなら、歴史に残るかも知れない偉大な愛の人となれる可能性をたしかにあなたのうちに宿して生き ているのである。